届出をしなければ、年間100万円以上の賃上げ原資をみすみす逃すことになります。
医療業界の賃上げ問題は、長年にわたり一般企業との格差が指摘されてきました。全国保険医団体連合会の調査によると、2024年度・25年度の2年間における医療従事者の賃上げ率はわずか3.4%にとどまっています。一方、全産業平均は同期間で7.3%(24年度3.56%・25年度3.70%)であり、医療従事者の賃上げは全産業の半分以下という実態が明らかになっています。
つまり、他産業と比べて賃金水準の差が広がり続けているということです。
こうした状況を受け、政府は2026年度の診療報酬改定において、本体改定率を30年ぶりとなる+3.09%という水準に引き上げました。このうち賃上げ対応が1.70%、物価対応が0.76%を占めており、実質的に処遇改善と物価高騰対策が改定の中心的な柱となっています。
さらに2026年6月の診療報酬改定を待たずに、政府は2025年度補正予算において「医療・介護等支援パッケージ(計1兆368億円)」を決定しました。この緊急支援策では、賃上げ・物価上昇対応支援として5,341億円が手当てされています。
緊急支援の支給額は施設区分ごとに異なり、病院は1床あたり19.5万円、有床診療所は1床あたり8.5万円、無床診療所は1施設あたり一律32万円が交付されます。たとえば20床を持つ有床診療所であれば、20床×8.5万円=170万円を受け取れる計算です。これは決して小さくない金額です。
ただし、この支援を受けるにはベースアップ評価料の届出が前提条件となっています。届出していない医療機関は支援対象から外れるケースがあり、手続きを放置することは大きな機会損失につながります。
賃上げ対応が急務です。制度の仕組みを正確に把握したうえで、早期に対応することが重要です。
厚生労働省「医療機関等における賃上げ・物価上昇支援事業について」(令和7年度補正予算の申請要領・スケジュールが確認できます)
ベースアップ評価料とは、2024年度の診療報酬改定で新設された、医療関係職種の賃金改善を目的とした診療報酬の加算です。医療機関が「賃金改善計画書」を地方厚生局に届け出ることで、初診・再診・訪問診療の際に一定点数が上乗せされる仕組みです。
種類は大きく4つに分かれており、それぞれ次のような施設に対応しています。
| 評価料の種類 | 主な対象施設 |
|---|---|
| 外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅰ) | 診療所・無床クリニック |
| 外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅱ) | 診療所・無床クリニック(Ⅰを超える賃上げを目指す場合) |
| 入院ベースアップ評価料 | 病院・有床診療所(1日につき算定) |
| 訪問看護ベースアップ評価料 | 訪問看護ステーション |
重要なのは、これが「届け出た医療機関だけが算定できる制度」という点です。賃上げを診療報酬で支援する仕組みが整っていても、届出をしなければ一円も入ってこないのが現実です。
計算の基本は「点数×件数×10円」です。たとえば外来ベースアップ評価料(Ⅰ)を月間500件算定した場合、点数設定によっては月数万円単位の収入増につながります。この収益は全額、対象職員の賃金改善に充てることが条件となっています。
2026年度改定では、点数の引き上げだけでなく、事務手続きの簡素化も進んでいます。これまで負担が大きかった計画書の記載項目が削減される方向で議論が進んでおり、中小規模のクリニックでも取り組みやすい制度に変わっています。
これは使えそうです。まだ届出をしていない場合は、今すぐ準備を始めることをお勧めします。
厚生労働省「ベースアップ評価料等について」(届出書類のダウンロードや算定要件の詳細が確認できます)
2026年度の診療報酬改定で特に注目すべき変更のひとつが、ベースアップ評価料の対象職種の大幅な拡大です。2024年度改定では「主として医療に従事する職員(医師・歯科医師を除く)」が対象とされていたため、事務職員や医師は制度の恩恵を直接受けにくい状況でした。
2026年度からは、新たに以下の職種が対象に加わります。
- 事務職員(受付、医療事務担当者など)
- 40歳未満の勤務医師・勤務歯科医師
- 薬局の勤務薬剤師(40歳未満)
- 歯科技工士(技工所勤務を含む)
これにより、医療機関で働くほぼすべてのスタッフの賃上げ原資を、診療報酬から確保できる体制が整います。従来は「事務職員は対象外」という認識が広まっていましたが、2026年度以降はその常識が変わっています。意外ですね。
なぜ対象が拡大されたのかという背景には、政策的な意図があります。これまで40歳未満の勤務医や事務職員への賃上げは、入院基本料や初・再診料の引き上げ分から間接的に充当するという複雑な仕組みでした。それを整理し、直接ベースアップ評価料として賃上げ原資が届く構造に変えることで、制度の透明性を高めようとする狙いがあります。
実務上の注意点として、対象職種が増えた分だけ賃金改善計画書の記載内容も変わります。新たに対象となった職員の人数や給与実績を正確に把握しておくことが、届出の第一歩です。
| 職種区分 | 2024年度改定 | 2026年度改定 |
|---|---|---|
| 看護師・薬剤師等 | ✅ 対象 | ✅ 対象 |
| 事務職員 | ❌ 対象外 | ✅ 対象に追加 |
| 40歳未満の勤務医師 | ❌ 対象外 | ✅ 対象に追加 |
| 40歳以上の勤務医師 | ❌ 対象外 | ❌ 引き続き対象外 |
40歳以上の勤務医師・歯科医師は引き続き対象外であることも覚えておく必要があります。対象範囲の把握が条件です。
厚生労働省「令和8年度診療報酬改定 1.賃上げ対応」(対象職種の具体的な要件と算定イメージが記載されています)
ベースアップ評価料を算定するには、地方厚生局への届出が必要です。届出が受理された翌月1日から算定がスタートするため、タイミングの管理が収益に直結します。
届出の手順は大きく3ステップで構成されています。
ステップ1:届出に関する基本事項の記載
保険医療機関コードや施設名称、届出年月日のほか、算定を希望する評価料の種類を記入します。これは比較的シンプルな作業です。
ステップ2:直近1か月間の実績を入力する
外来・在宅ベースアップ評価料(Ⅰ)による1か月あたりの算定金額の見込みを算出します。直近1か月の初診・再診・訪問診療の件数データが必要になるため、レセプトの件数情報を事前に整理しておきましょう。
ステップ3:1か月あたりの賃金改善見込み額を入力する
算定収益をどの職種に、どのくらい分配するかを記載します。基本給や手当の引き上げを想定した計画として記載することが求められます。
届出後は、毎年6月30日までに「賃金改善計画書」を地方厚生局に提出し、翌年度には「実績報告書」を提出するサイクルが続きます。2026年度からは8月に中間報告も求められる見込みです。
📅 期限管理の目安
| 手続きの内容 | タイミング(目安) |
|---|---|
| 届出・申請 | 算定を始めたい月の前月末まで |
| 賃金改善計画書の提出 | 毎年4月作成・6月30日までに届出 |
| 中間報告書の提出 | 毎年8月頃(2026年度から) |
| 実績報告書の提出 | 翌年度の8月頃 |
注意したいのは、届出様式に不備があると差し戻しが発生し、算定開始が1か月以上ズレることです。記載例を事前に確認するのが基本です。
厚生労働省は届出書類の書き方を「医科編」として公表しており、記載例とともにダウンロードできます。初めて届け出る場合は、この資料を手元に置きながら作業を進めると、不備のリスクを大幅に下げられます。
厚生労働省「ベースアップ評価料の届出書類の書き方〜医科編〜2025年1月版」(届出様式と記載例が確認できます)
「うちはまだ届け出ていないが、問題ないだろう」という判断は、実は大きなリスクをはらんでいます。
現状として、ベースアップ評価料の届出率は6割に届いておらず、診療所では算定率が4割程度にとどまるとも指摘されています。届出をしていない医療機関では、賃上げの財源を自院の経営収益から捻出しなければなりません。他の医療機関が公的財源で賃上げを実現している中、自院だけが自腹を切る構造になるということです。痛いですね。
機会損失の具体的な規模を見てみましょう。無床診療所の場合、2025年度補正予算による緊急支援だけで一律32万円の交付があります。さらに、2026年6月以降はベースアップ評価料による継続的な収益が積み上がります。年間で見ると数十万円から100万円以上の差が生じるケースも十分あり得ます。
一方、届出を先送りにした結果として、競合医療機関との給与格差が広がる問題も無視できません。特に看護師・薬剤師・事務職員は、給与水準を重視した転職が珍しくない職種です。地域内の他院が賃上げを進めれば、優秀な人材が流れていくリスクが高まります。
さらに2026年度改定では、継続的な賃上げを実施している医療機関により高い評価が与えられる「算定実績に応じた評価」が導入されています。早期に届け出て実績を積んだ医療機関と、後から追いかける医療機関では、今後の評価に差が出る可能性があります。つまり、先送りのコストは時間とともに増えていくということです。
届出の主な障壁として多く挙げられているのが、書類作成の手間と計算の複雑さです。この点については、電子カルテやレセプトコンピュータなど、制度改定に自動対応するシステムを活用することで、作業負担を大幅に削減できます。担当者の退職や異動に備えて、業務マニュアルの整備と情報の複数名共有も有効な手段です。
対策が必要な場面は明確です。「届出の準備が面倒」→「専任事務長がいない、計算できるか不安」→「制度改定に自動対応する電子カルテを検討する」という順番で行動を一つ決めておくと、前に進みやすくなります。
全国保険医団体連合会「医療従事者の賃上げ、全産業の半分以下」(医療と全産業の賃上げ格差の実態データが確認できます)
制度の概要を理解した後も、実務レベルでの疑問はなかなか解消されないものです。ここでは現場でよく出る疑問を整理しながら、制度の見落としやすいポイントを補足します。
Q. 定期昇給もベースアップとして認められる?
これは誤解が多いポイントです。ベースアップとは「基本給または決まって毎月支払われる手当の引き上げ」を指しており、定期昇給(毎年の年齢・勤続に応じた昇給)は含まれません。定期昇給だけを実施してベースアップ評価料の原資に充てることはできないため、別途ベースアップとして基本給を引き上げる必要があります。定期昇給だけでは不十分です。
Q. 算定額が賃金改善額を上回ってしまったらどうなる?
余った金額は翌年度に繰り越して、次年度の賃金改善分に充てることが認められています。また、賞与や臨時手当での配分も可能とされています。ただし、余剰分を自院の運転資金に流用することはできません。適切な記録管理を怠ると算定要件を満たさなくなるリスクがあり、報告義務は必須です。
Q. 新規開業したばかりの医療機関は届け出られる?
開業初月から届出はできません。最低1か月の給与支払い実績が必要なため、たとえば4月開業の場合は、4月分の給与支払い後に届出を行い、受理された翌月(早ければ6月)から算定を開始できます。開業準備と並行して届出のタイミングも逆算しておくことが重要です。
独自視点:「賃上げ原資の二重構造」に気をつける
2026年度改定では一時的な補正予算交付金と恒久的なベースアップ評価料が同時に走るという、特殊な移行期間になっています。補正予算の交付金は2026年5月までをカバーし、6月以降はベースアップ評価料に引き継がれる設計です。この切れ目を見落として「補正予算の申請はしたが、6月以降の届出を忘れた」というケースが実際に起こりやすい状況です。
補正予算の申請と6月以降のベースアップ評価料の届出は、別々の手続きです。どちらも必要です。
補正予算の申請スケジュールと診療報酬改定後の届出スケジュールを、一枚のカレンダーに並べて管理することを強くお勧めします。見落としを防ぐための行動を一つ選ぶとすれば、まずスタッフの職種リストと給与総額を一覧表にまとめることです。これが補正予算申請にもベースアップ評価料の届出にも必要な共通基礎資料になります。
ウィーメックス「2026年版 ベースアップ評価料の算定期限と準備手順」(届出の3ステップとスケジュールが丁寧に解説されています)
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